Please call my name.

テイリン6で発行したイズチ本のweb再録です。

※「スレイくん天族転生ルート」をバッドエンドだと思っている人が、なんとかイズチが報われる形を検討した結果のお話です。個人的にはハッピーエンドのつもりなのですが、見る方によってはバッドエンドかもです…すみません……。
※人間のスレイくんは明確に死んでいるため、死にネタが苦手な方はご注意ください。





【 序章 君が眠った次の日の出来事 】


 天族の杜、イズチ。
 山よりも高く、雲よりも高く、空に一番近いこの地が、僕たちの生まれ育った故郷だった。数十時間ぶりに訪れたはずの故郷は、もう何年も帰っていなかったと思わせるほど懐かしく感じる。目の前の緩やかに広がる丘から少し目を離すと、後ろを歩く仲間たちの姿が目に入った。
 ―ひとり、ふたり、さんにん。
 無意識に足が止まる。足りない誰かを探すように視線を左から右へと移すと、丘を駆け上がる風が頬をなで、目じりに溜まった熱が少しだけ冷めたような気がした。
「ミクリオさん、本当によろしいのですか……?」
 仲間の一人が、僕の背中に声をかける。―ここは私が、と続ける声を遮って、僕はゆるりと首を振った。
「これだけは、僕にやらせて欲しいんだ。」
 久方ぶりに発した声は、想像していた以上に落ち着いたものだった。―そう、これだけは。自身の言葉をもう一度心の中で反芻し、僕は目的地である丘の頂上を見上げる。丘の上の小さな家が、ほんの少し、遠のいたような気がした。


 ゆっくりと、永遠と感じるほどの時間をかけて上りきった丘の頂上には、見慣れた家族たちが並んでいた。―ただいま。無意識に呟いた小さな声は無事に相手まで届いたようで、目の前の人々が小さく頷く。皆、優しい瞳で僕を見つめてくれていた。
本題を口にせねばと、ここに来るまでの間ずっと胸の中で繰り返していた言葉たちをかき集める。落ち着いて、順番に。
「災禍の顕主……ヘルダルフを、討ちました。」
 震える声に力をこめる。
「でも、ジイジは、助けられなくて……、僕たちが―…っ」
 最後に絞り出そうとした声は、目の前に立つ家族たちの腕の中に消える。優しく頭を撫でられ、ようやく僕は彼らに抱きしめられていることに気付いた。

「よく、頑張ったな。お前も……スレイも。」
 この場にはいない親友の名を呼ばれ、びくりと震えた僕の肩を叩いた家族の一人は、穏やかな声で続ける。

「大丈夫。きっと、数百年なんてあっという間だよ。」

 それは、きっと、僕がいま一番必要としている言葉だったのだろう。
 くしゃりと歪んだ顔はもはや取り繕うこともできず。僕は、ただ、声をあげて泣くことしか出来なかった。





【 一章 目覚めの時 】


まどろみの中、くりかえし、くりかえし、夢を見ていた。
真っ白な世界をたゆたうだけの夢。
そこには、何もなくて、誰もいない。
薄れゆく自我を保つために、オレは、夜空に輝く星を数えるように、
忘れてはいけないものの数える。

守りたい人。
優しい思い出。
大切な約束。

ひとつひとつ、指折り数えて。
目覚めの時を、ただ、待ち望んでいた―…。



***


 重いまぶたを持ち上げると、眼前には崩れた柱や壁、そして瓦礫が散らばる、ひび割れた石畳が広がっていた。―ここは?と呟かれた声は、あまり覚えが無いが、たぶん俺自身のものだろう。次第にクリアになる頭を軽く振り、状況を確認するために辺りを見回す。
 俺は今、周囲より一段高い場所に置かれた、玉座のような形をした石の瓦礫に、深く身を沈めていた。瓦礫と一体化してしまったかのように重く、思い通りに動かない身体を鑑みるに、ずいぶんと長い時間、俺はここで眠っていたようだった。何故自分がこんな場所で寝ていたのかは分からないが、ずっとこのままでいるわけにはいかないと思い、手足に力を込めて身を起こす。ギシッと鳴った身体は、もうずいぶんと使われていない、古びた玩具のように感じた。
「ここ、どこだ……?」
 改めて口を出た疑問に答えてくれる人影はどこにも無い。―困ったなぁ、と頭を掻きながら、ふと、視線を足元にずらすと、胎児のように丸くなって眠る、一人の青年の姿が目に入った。彼なら何か知っているかもしれないと、小さな希望を抱きながら青年の横に膝を着いた俺は、彼に起きてもらうため、軽く肩に触れようとした。―…ひやり。想像していなかった温度を掌から感じ、俺は思わず手を引っ込める。まさか、と顔をしかめつつ、今度はゆっくりと、青年の首筋に手を添えた。
「死んでいる、のか……。」
 小さく息を吐いて、俺は青年の首筋から手を離す。なぜこんな所で死んでいるのか、彼は誰なのか、そんな疑問が頭を駆け巡るが、それはきっと、いま考えても無駄なことだ。
 せめて、名も知らぬこの青年の死が安らかなものであるようにと、左手を自身の胸にあてて祈りを捧げた後、俺は再度立ち上がって、外へと抜ける道を探す。左右に視線を彷徨わせると、右手奥の瓦礫の隙間から、うっすらとした明かりが見えた。明かりに導かれるように足を踏み出した俺は、最後にもう一度だけ青年の亡骸を一瞥する。この姿を、この穏やかに眠る表情を忘れてはいけないと、心が痛いほど叫んでいた。



 明かりを頼りに瓦礫を押し分けると、瓦礫の隙間から新鮮な風が吹き込んできた。土と草、そして暖かい太陽の香りを含んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら瓦礫を崩して外に這い出ると、明るい光に包まれた廃村が目の前に広がる。
 以前火災でもあったのだろうか。朽ちた家々には、ところどころ焼けた痕が残る。だが、きっと。この地で起きた災害はおそらく数百年も前の出来事であろう。朽ちた木材や、崩れた石垣の合間を縫うように、緑豊かな木々や草花が生い茂り、この地で流れた時が膨大であることを教えてくれていた。

 人影を探して村の中を歩き回ると、村の入り口と思しき場所に佇む、古びた石碑が目に入った。苔で覆われた表面を指で軽く撫で、書かれている文字を確認する。
「……この村から、始めよう……?」
 シンプルに綴られた一片の言葉は、まるでここだけ時間から切り離されたように、この地で暮らしていた人々の希望を色濃く残していた。
 きっとこの石碑は、村開拓の記念碑だったのだろう。石碑を建てた当時の人々の想いを汲み取るように、苔生した石の表面に手を添え、目を閉じる。この村で始まり、何かのきっかけで終わりを迎えたのであろうこの地の人々の生活は、幸せなものだったのだろうか。それともまだ、どこか別の地に移住でもして、始まりの日の希望を忘れずに営みを続けているのだろうか―…?
 考えても分からないことがまた一つ増えてため息を吐く。どうも自分は、過去の出来事や、遥か昔に生きていた見知らぬ誰かの想いに胸を馳せてしまう癖があるらしい。


「ここにも誰もいないのかなぁ。」
石碑が置かれた村の入り口を一度離れ、村の中の探索を再開する。崩れた家々を一軒ずつ回り、人影を探すが、期待するような結果は得られなかった。まるで世界に一人きりになってしまったかのような心細さを感じつつ、空を仰ぎ見る。ゆれる葉の隙間から覗く青い空と木漏れ日が、とても眩しかった。

ふと、懐かしい水の匂いが鼻を掠める。
 近くに川や湖でもあるのだろうか。見知らぬ土地で感じる懐かしさに違和感を覚えつつも、俺は、胸を満たすこの感情に縋るように、水の気配を追って走り出した。



 廃村を抜けてたどり着いた先には、やはり見覚えの無い、古びた遺跡が佇んでいた。遺跡の中に川や湖があるとは思えないが、水の匂いも、懐かしさも、この遺跡に入ってから一段と強く感じられるようになっていた。早く、この感情の源泉を一目見たいと、薄暗い通路を抜け、古びた階段を駆け下りる。
 がむしゃらに走り続け、息も切れてきた頃、ひときわ巨大な扉が目の前に現れた。自分の力で開けられるだろうかと少しだけ心配になり、周囲を見渡して扉の開閉装置がないか確認してみるが、それらしきものは何も無い。―いけるかな……?誰に問うたわけでもないが、思わず声が漏れる。息を整えるため、二度、三度深呼吸をしてから、両手を扉につき、体重をかけた。

ギギギ、と重い音と共に扉が動く。半分ほど開いた扉の隙間から身を滑り込ませた俺は、扉の先の光景に息を呑んだ。

 地下水が流れてきたのだろうか―…?青く透き通る水が床一面を薄く覆い、天井から降り注ぐ光を反射してキラキラと輝いていた。ここが自分の求めていた場所なのだろうかと、光る水面をゆっくりと目で追う。左右を見回した後、視線を上げ、最後に部屋の中央を視界におさめた。

―見つけた。

ドクンと心臓が脈打つ。部屋の中央に佇む石碑の前に、天井からの光を受け、青白い光を帯びる一人の青年の姿が見えた。溢れ出る懐かしさに視界がゆがむ。声をかけねば、彼の手を取らねばと、一歩踏み出した所で、目の前の青年の姿がぐらりと揺らいだ。
 石碑前の床が崩れ、青年の身体が沈む。とっさに駆け出した俺は、崩れた床と共に穴に落ちようとしていた青年に手を伸ばした。


「……間に合って、よかったぁ。」
 穴から身を乗り出し、伸ばした手の先に確かな温もりを感じて、俺はホッと息を吐く。青年の姿を確認するため目線を下げると、こちらを見上げる菫色の瞳と目が合った。逆光が眩しいのだろう。少し眉を寄せ、俺の顔を覗き込んだ青年は、一瞬驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと、花が咲くような美しさで微笑んでくれた。

ドクンと、再び心臓が脈を打つ。

 青年を穴から引き上げた勢いで、俺は後ろに尻餅をつく形で座り込んだ。わざとらしく肩で息をしながら、目の前で同様に座り込む青年を盗み見る。
 とても綺麗な青年だと思った。白を基調とした服と、天井からの光を受けて同じ様に白く輝く蒼銀の髪の眩しさに目が眩む。長く伸ばされた髪がふわりと揺れたのを見て、俺はようやく、目の前の彼に見つめられていることに気がついた。
「えっと……。」
うまく言葉が続かない。生まれてはじめて人と話すようなもどかしさに、思わず泣きたくなる。こういう時、なんて言えばいいんだっけ?会話なんて昔から当たり前に出来ていたはずなのに―…?

「……いや、ちがう。」

 はじめてなんだ。
 昔なんて無い。
 俺は、いま、はじめてこうやって人と向き合って―…。

「俺は……、」
 言葉の代わりに投げかけた視線を受け、目の前の彼は、菫色の瞳を静かに伏せた。



***


「君は、きっと。生まれたばかりの天族なんだよ。」

 ―僕についでおいで。と促されるままに、俺は今、青年の後ろをついて、冷たい風が吹き抜ける小高い丘を歩いていた。俺以上に俺の状況を理解していると思われる彼は、助けてくれたお礼だと言って、この世界のことや、俺と彼が『天族』と呼ばれる種族であること、俺たちとは別の『人間』と呼ばれる種族のことなど、色々な知識を教えてくれる。
「天族は、はじめから天族として生まれてくる場合と、人間から転生して、記憶を失った状態で生まれる場合の、二通りの生まれ方があるんだ。君はたぶん後者で、天族として生まれ変わったばかりだから過去の記憶が何も無いんだと思うよ。」
「俺、生まれてはじめて出会えたのが貴方で良かったです。こんなに親切にしてもらって、なんてお礼を言えばいいか―…。」

 ―それに、貴方の傍はとても心地良い。最後の言葉だけは、胸の中でそっと呟く。
自身を水の属性を持つ天族だと紹介してくれた彼は、彼と出会う前から感じていた懐かしい水の気配を色濃く纏っていた。記憶も過去も無いのに『懐かしい』なんて言葉を使うのはおかしいのかもしれないけれど、俺の心がそう言ってくるのだからしょうがない。

「礼なんていらないよ。僕も、君に助けられたんだから。」
―お互い様だね。と、目の前を歩いていた青年がくすりと笑う。
「……ちなみになんだけど。」
「?」

「君が目覚めた時、君の傍には本当に誰もいなかった?」

 冷たい風が頬を撫でた。
 青年は歩みを止め、菫色の双眸を真っ直ぐこちらに向ける。先ほどまでの優しい空気とはどこか違う重くるしさに、俺は小さく息を呑んだ。

「いや、誰も―…」
 とっさに答えを返そうとした瞬間、一際強い風が俺の身体から熱をさらった。
冷えていく自身の指先が、ほんの数刻前の記憶に触れる。
「―…そう言えば、」声が震えた。
「男の人が、一人だけ。俺が目覚めた時には、もう、亡くなっていたけれど。」

 寒さのせいだろうか。震える手を握り締め、一つ一つ、言葉を選ぶように返事を口にする。この応えが、目の前の青年にとってどのような意味を持っているのかは、俺には分からない。ただ、一瞬だけ伏せられた彼の顔が再び俺に向けられた時には、すでに、先ほどまでと変わらない優しい瞳だけがそこにあった。
「変なことを聞いて悪かったね。さあ、もう少しだけ歩こう。あと少しでレディレイクの都が見えてくると思うから。」

 前を向いて歩き出した彼の背中で、長い髪がふわりと風に揺れる。何故だろう。彼の優しい言葉と瞳。そして、一瞬見えた泣きそうな顔が、今の俺にはとても辛かった。





【 二章 雛鳥 】


「同胞よ、こんなところで寝ていたら風邪を引くぞ?」

 閉じられた瞼の上に降り注ぐ木漏れ日に乗せて、よく知った男の声が俺を眠りから呼び覚ます。薄く目を開くと、木々の隙間から覗く澄み渡るような青い空と、そんな空の青よりも少しだけ深み帯びた蒼い髪を持つ青年の姿が目に入った。
「ウーノさん……。」
 目の前の人物の存在を確かめるように言葉を紡ぐと、それに応えるように俺の庇護者は小さく笑った。

 俺がレディレイクの都に住み着いてから早三ヶ月。天族として生まれたばかりの俺は、世界にまつわる様々な知識をこの地で学んでいた。幸いなことに、俺が住まわせてもらっているこの聖堂は、天族にとっても人間にとっても特別な場所であったようで。天族としての生き方を教えてくれる同胞たちや、人間の歴史や伝承を記した書物に囲まれて、俺は日々、穏やかな生活を送ることが出来ていた。
「最近はいつもここに居るようだが、気に入ったか?」
 頬をくすぐる芝草の感触と暖かな土の匂いを名残惜しく感じつつ、俺はゆっくりと身を起こして目の前の青年、この地で水の加護を司る、加護天族の青年に向き直る。
「聖堂の中は静か過ぎて落ち着かなくて……。それに、ここは日の光も風も良く通るから、日向ぼっこするのにちょうど良いんです。」
 目の前の青年に笑顔を見せつつ、俺は少しだけ嘘をつく。
 聖堂の中よりも外の風にあたっている方が好きなのも、聖堂の裏手にある、この小さな庭が気に入っているのも本当だ。ただ、この広いレディレイクの都の中でこの場所にこだわるのには、また別の理由があった。

水が怖かったのだ。もう少し正確に言うと、水に映る、自身の姿が怖かった。

 三ヶ月前、はじめてレディレイクの都に足を踏み入れ、蒼銀の髪の青年に紹介された『湖の乙女』と呼ばれる天族に会いに行く際、水路を流れる透明な水に映った自身の姿を見て愕然とした。
同じ顔だったのだ。俺が目覚めた時に目の前に横たわっていた、あの亡骸と。
俺は、人間から転生した天族だと、蒼銀の彼が言っていた。だから、きっと。あのとき穏やかに眠っていた青年は、人間だった頃の俺なのだろう。確信めいたその予感は、生まれたばかりの俺にとっては少しばかり重荷すぎた。―だって、怖いじゃないか。自分の死に顔なんて、なかなか見られるものじゃない。
そのせいもあって、都中に豊かに水路が張り巡らされたレディレイクの市街には、いまだに苦手意識があった。

「そうか。確かに、この場所は気持ちがいいな。」
 そう言って、目の前の青年は俺の隣に静かに腰を下ろす。たぶん、俺の小さな嘘は見抜かれているのだろう。それでも。何も聞かず、ただ傍に居てくれる彼の優しさは、今の俺にとって、とても有り難いものだった。
「……ねぇ、ウーノさん。」
 ―どうした?と問いかけてくる視線を感じながら、俺は、この都に着いてから何度も投げかけている問いを、再び口にした。

「俺をウーノさんたちに紹介してくれた水の天族の人のこと、本当に二人とも知らないんですか?」
 この問いをはじめて口にしたのは、彼らと暮らし始めてから数日が経った後だった。その時は、目の前の青年も、俺のもう一人の庇護者である『湖の乙女』も、そのような天族のことは知らないと頑なに口を閉ざしていた。
天族とは、俺も含め、嘘を付くのが下手な種族なのだろう。その一件以来、蒼銀の彼の話題を出そうとするたびに、あまりにもわざとらしい会話で俺の問いかけはうやむやにされ続けていた。
「その同胞のことを知って、お前はどうしようというのだ?」
 ―やけにこだわるな。と小さく息を吐き、隣の青年は苦笑を漏らす。

「どうしたいのかなんて、自分でも分からない……。」
 澄み渡るような青空を仰ぎ見て、俺は静かに瞳を閉じる。
「でも、俺……。あの人の泣きそうな顔が忘れられないんです。一緒に居なきゃいけない、泣かせるようなこと、もう二度としちゃいけないって―…。」
 ―だから、もう一度彼に会いたいんです。そう言って、俺は隣に向き直ると、姿勢を正して水の庇護者に頭を下げた。

「―…そうか。」低く下げられた俺の頭に、ため息が一つ落ちる。
「それが、お前の大切な想いなのだな。」

 根負けしたと呟く青年の声を合図にそっと顔を上げると、困ったように笑う俺の庇護者と目があった。
「ここから南西に、レイフォルクと呼ばれる霊峰がある。」
 声を潜め、俺の耳に顔を寄せた青年はさらに続ける。
「そこに、エドナという地の天族がいる。彼女なら、お前が必要としている答えを与えてくれるかもしれない。」

 ―私が言ったことは内緒にしておくれ。と笑う青年は、何故だかとても嬉しそうな顔で、俺の背中を軽く叩いた。



***


「天族さま、旅の加護をありがとう!」

 そう言って元気に手を振る少女と、少女の後ろで深く頭を下げる両親を見送り、俺は改めて目の前に聳え立つ霊峰を見上げた。
「さてと、ここからは一人旅だ。」
 ―寂しくなるなぁ、と一人呟きながら、俺は、ここ数日の穏やかな旅路を思い返す。


 レディレイクの都を旅立ったのは、今から二日ほど前のことだった。
 都の外に出たいという俺の申し出に対して、俺のもう一人の庇護者である『湖の乙女』は最後まで難色を示していた。―私がついて行ければいいのですが……。と悩ましそうにため息を吐く彼女の姿を見て、心配させてしまった申し訳なさと、心配してもらえている嬉しさで胸が苦しくなる。そんな中、悩める俺たちに助け舟を出してくれたのが、たまたま聖堂を訪れていた一組の人間の一家だった。
 行商の旅をしているという一家は、レディレイクの都での仕事を終え、次の目的地である大樹の街マーリンドに旅立つところだと言う。一家の主からの説明を受け、イマイチ状況が把握できていない俺が二人の庇護者に顔を向けると、先ほどまでの難しい顔をゆるりと緩ませた『湖の乙女』が、旅の一家から言葉を継いで俺に向き直った。
「つまりですね。この方たちが霊峰レイフォルクまで旅を共にして下さると、そう申し出て下さっているのですわ。」
 ―せめて行きだけでも旅慣れた方とご一緒できるなら私も安心です。と嬉しそうに微笑む庇護者たちに見送られ、俺はこの一家とレイフォルクを目指す事となったのであった。


 旅を共にした一家は、生まれたばかりの天族という俺の境遇を知ると、行商の旅を続ける中で培った様々な知識を俺に与えてくれた。中には、すでに聖堂の書庫で得た知識もあったのだが、実際に人の口から語られる人間の営みやその歴史は、今まで以上に世界が身近なものだと俺に実感させてくれる。

 そんな充実した旅の途中、一つの昔話を聞いた。

「ねぇ、天族さま知ってる?今からずうっと昔はね、私たち人間は天族さまとお話できなかったんだよ?」
 行商の夫婦の一人娘である少女が、後ろを歩く俺に振り返りながら問いかけを投げる。―そうなの?と小さく首を傾げた俺を見て顔を綻ばせた少女は、母親が我が子に語り聞かせるように、ゆっくりと古い伝承を語り始めた。
 その物語の始まりは数百年前まで時を遡る。『災厄の時代』と人々に語られる、今よりもずっとグリンウッド大陸が穢れに満ちていた時代に、導師と呼ばれる一人の人間が世界の理を変えようとした。
 彼は当時の五大神の一人であるマオテラスをその身に宿して眠りにつくことにより、マオテラス自身による大陸の浄化を助けつつ、大陸で生きる人間の霊能力を底上げして、穢れを浄化できる多くの者を生み出した。それから今に至るまで、彼の意思を受け継ぐ多くの導師たちの尽力により、この地は穢れの溜まらない健やかな世界へと生まれ変わったと言われている。
「じゃあその導師が眠りにつく前は、天族を視認できるほど霊能力が高い人間はほとんどいなかったんだ。」
 ―今じゃ考えられない話だなぁ。と感心して呟くと、自分よりずっと年上に見える天族の俺に自身の知識を披露できたのが嬉しかったのか、目の前の少女は満足げに微笑を返してくれた。

「その導師さまはね、天族さまたちと、私たち人間が一緒に仲良く生きていける世界を夢見ていたんだって。」
弾むような足取りで俺の隣に立った少女が、小さな手をこちらに差し出す。

「導師さま、今のこの世界を見たら喜んでくれるかな?」



その時の少女の笑顔は、今でも忘れられない。
「うん、きっと。喜んでいると思うよ。」
霊峰の前に一人立つ俺は、もう見えなくなってしまった旅の一家の背中に向かって言葉を零す。―だって、彼の望みは確かに叶っているはずなのだから。蒼穹を背に輝く霊峰をもう一度見上げ、俺は、俺自身の望みを叶えるため、大きく足を踏み出した。


***


「そう、アナタが噂の……。」

 レイフォルクの山頂も間近と思われる山道の途中。
断崖から俺を見下ろした少女は、蒼穹の瞳を細めてポツリと呟く。日の光を遮るように掲げられた傘の下でもキラキラと輝く金色の髪に目を奪われつつ、俺は話を聞いてもらうためにもう一度崖の下から声を張り上げる。
「あのっ!!俺、エドナさんにどうしても聞きたいことがあって!!」
「エドナ、でいいわ。」

 断崖から飛び降りた地の天族の少女が、ふわりと俺の隣に着地した。
「こっちにいらっしゃい。」
 有無を言わせずに歩き出す少女の小柄な背を追うため、俺は慌てて歩を早める。
 数日前も、数ヶ月前もそうだった。俺は誰かの後ろを付いて歩いてばかりだな、なんてぼんやりした考えが脳裏を掠めて、思わず苦笑が漏れる。そんな俺に訝しげな視線を送る少女と目が合い、気恥ずかしさを隠すように眉を下げて笑顔を返すと、少女は困ったように瞳を泳がせて―たしかに、あの子が戸惑うのも分かるわ……。と、小さくため息を吐いて、その手の傘を深く傾けた。


「それで、アナタは何を聞きたいの?」
 山頂まで辿り着くと、少女は傘を閉じて手近な岩に腰を下ろす。俺は彼女の正面に立つと、俺が数ヶ月前に生まれたばかりの天族であること。そして、生まれてはじめて出会った水の天族に再び会うため、彼の行方を捜していることを出来るだけ簡潔に伝えた。
「長くてふわふわした銀色の髪を……こう、後ろで高く結ってる、きれいな水の天族の男の人なんだけど……。」
 ―エドナさん、彼の事、何か知らないですか?と神妙な顔で問いかけると、目の前の少女は手にした傘で俺の腰をしたたかに打つ。
「いてっ!」
「エドナでいいって言ってるでしょ?あと、敬語も落ち着かないからヤメテ。」
「あ、はい、すみま……ごめん、なさい。」
 それでも抜けきらない敬語を咎めるように睨まれ、俺は頭を掻きながら「ごめん、エドナ」と言葉を直した。満足げに頷いた少女は、蒼穹の瞳を細め、慈しむように俺の顔を見つめる。

「エドナ?」
「……ミボよ。」
「え?」
「アナタが探している水の天族。たぶん、ミボのことよ。」

 突然与えられた答えに、一瞬思考が止まる。
「みぼ、さん……?」
言葉を確かめるように呟いた声がよほど間抜けだったのだろうか。目の前の少女は口に手を当て、声を抑えるように笑い声を漏らす。晴れ渡る蒼穹から降り注ぐ陽光を受けて輝く金色の髪と同じように、少女の表情はとても明るい。

「そう、ミボよ。よく覚えておきなさい。」
ようやく笑いの収まった少女は、幼い面に悪戯っぽい笑みを作ると、再度俺の腰を軽く傘で小突いた。

「ミボなら今の時期、イズチに帰っているはずよ。レディレイクからさらに西の森を抜けた先にある天族の社……そこが、あの子の故郷だから。」
「ほんとに!?」
 ―ウソなんかついて私になんの益があるの?と笑う少女は、ひらひらと手を振り、「早く行きなさい」と言外に伝えてくる。そんな彼女の小さな手を取り、深く頭を下げて感謝の言葉を重ねると、今度こそ我慢できないとばかりに、少女の笑い声が遠く澄み渡る蒼穹に響いた。

「アナタならきっと―…、」握った手の先で、少女は穏やかに微笑む。
「ハッピーエンドを、ワタシたちに見せて。」





【 三章 何処の地 】


「本日のメイン、焼きあがったよ〜!!」

 赤い髪の女性が大皿を抱えて現れると、すでに食卓に付いていた数人が、皿を置く場所を作るために腰を上げる。コトリ、と卓の中央に置かれた大皿には、彩の良い新鮮な葉野菜の上に、大きな獣肉の丸焼きが乗せられていた。
「こっちの飲み物足りてないよ〜?」
「スプーン持ってない人、手ぇ上げて!」
「よし、そろそろ夕食をはじめるぞ。」
 銀色の髪を後ろに撫で付けた男性の一声をきっかけにして、こじんまりした、決して広くはない部屋の中で、俺を含めた十数人の天族たちが食卓を囲む。―いただきます!と重なる声の真似をして、俺も、数日前に旅の一家に教わったとおりに食材と調理者への感謝の言葉を口にすると、目の前で湯気立つどんぶり皿を手に取った。

「どう?口に合うかしら……?」
 隣に座った、ロアーナと名乗る女性に声をかけられ、俺は、口いっぱいにご飯を含んだまま大きく首を縦に振る。その様子が面白かったのか、目の前の彼女も、俺たちの周囲で様子を伺っていた他の天族たちも朗らかに笑みをこぼした。そんな周りの反応が少し気恥ずかしく、無理やり口の中のものを飲み込んだ俺は、慌てて言葉を続ける。
「すごく美味しいです!旨みと辛さが絶妙で……これ、なんて料理なんですか?」
「それはマーボーカレーよ。みんな久しぶりの料理だったから、内心ドキドキしてたの。口に合ったみたいで良かったわ。」
「突然お邪魔したのにこんなに盛大に歓迎してもらえて、本当になんてお礼を言っていいか……。俺、暖かい料理ってはじめてだったんで、とても嬉しかったです。」
 素直に感謝の気持ちを伝えると、一瞬だけ、スプーンを持つ彼女の手が止まった。
「そっか、はじめてなんだ―…。」
小さく声を漏らした彼女はどこか寂しげに目を伏せたが、次の瞬間には満面の笑みを浮かべ、―イズチへようこそ、歓迎するわ。と、優しく俺の肩を叩いてくれた。


 部屋の小窓から覗く空に小さな星が瞬きだす頃合になると、食後のデザートとしてバニラソフトクリームが振舞われた。ハイランドゴートのミルクで作られたというソフトクリームは絶品で、あっという間に器が空になる。よほど悲しそうな顔で空いた器を見つめてしまっていたのか、火を司る壮年の天族が自身の分のバニラソフトクリームを俺に手渡し、豪快に笑った。
「ナッツ、良かったな!お前の作ったソフトクリーム、気に入ったみたいだぞ。」
「本当?良かった、ミクリオに書いてもらったレシピのおかげだわ。」
 台所から顔を覗かせた女性の言葉に、ピクリと俺の肩が震える。
 すでに半分ほどに減ってしまった二杯目のソフトクリームから目を上げると、「しまった」という顔で目を泳がせる、浅葱色の髪の女性と目が合った。

「ミクリオって……、」
「ミクリオは、俺たちイズチの民の大切な家族の一人だよ。」

突然、背後から声をかけられる。俺を含め、その場の全員が声の方向を振り返ると、先ほど夕食の準備を仕切っていたオールバックの青年が、困ったような顔で笑っていた。
「カイムさん……。」
「ミクリオのこと、気になるのか?」
 分からない。名も知らぬ誰かの事なんて、気になる理由がない。でも、何故だか否定することは出来なかった。そんな俺の様子を見守っていた青年は、返事もせずに固まってしまった俺の正面にゆっくりと腰を下ろす。

「今は旅に出ているからイズチにはいないけれど、真面目で、責任感の強い、いい奴だよ。君ともきっと仲良くなれると思う。」
「その人は、一人で旅を……?」
 それは、天族なら当然の疑問だった。
 俺たち天族はひとつの土地に留まり、その地の人間たちに加護を与えながら長い年月を生きることが多い。理由は単純。天族は、浄化の力を持つ特別な高位天族を除いて、穢れから自身の身を守る術を持たないからだ。昔と比べて穢れの留まらない世の中になったと言っても、穢れが生まれないわけではないのだから。本来であれば、一人で自由に旅ができるのはよほどの力を持った天族に限られる。普段は俺の意思を何より尊重してくれる火の庇護者が、俺一人での旅立ちを渋ったのもこの辺りが理由であろう。

 ―なぜ、一人で?危険じゃないんですか?と首をかしげる俺を見て、目の前の青年は笑って答える。
「アイツが……ミクリオが、一緒に旅をしたいと願ったのは、一人の人間だけだったんだ。」
「人間、ですか?」
「あぁ。このイズチで、天族の俺たちに育てられた人間だ。その子とミクリオは、赤ん坊の頃から一緒に育った。何をするのも一緒で、家族であり、一番の親友でもあった。」

 その人間と天族の子は、世界中の遺跡を巡る夢を持っていたと青年は語る。
 彼らは、世界中の遺跡のどこかに、きっと、人間と天族が共存できる答えが残されていると信じていたのだ。
「アイツらはお互いに一言も言わなかったけど。きっと、種族が違う自分たちがずっと一緒にいられる可能性を探していたんだろうなぁ。」

 過去形で語られる言葉たちは、どうしようもないほど穏やかで。
顔も知らない人間と天族の結末を想って目を伏せた俺の手の中では、溶けてしまったソフトクリームがさめざめと揺れていた。



***


 澄み渡る早朝の空に、イズチヒバリの鳴き声が響き渡る。
旅の装束に身を包んだ俺は、天族の杜の入り口で一度足を止め、この地の加護を名残惜しむようにゆっくりと息を吐いた。

「せっかくここまで来たのに、探し人に会えなくて残念だったな。」
「いえ、顔も名前も分かっているので……また気長に探してみます。今回の旅では皆さんと知り合えたので、それだけで十分収穫はありました。」
 そう笑って後ろを振り返ると、何故だか困ったように目を泳がせる天族たちの顔が目に入る。―名前、なぁ……。と口に手をあてて呟く彼らの様子は昨日からどこかおかしく。俺は小さく首を傾げて昨夜の出来事を思い返した。


 歓迎の宴も終わりに近付く深夜。
今回の旅の目的である蒼銀の青年の話題を口にした瞬間、その場でお茶を啜っていた数人の天族たちの時が止まった。何か悪いことを口にしてしまったのかと動揺する俺を尻目にして互いに顔を見合わせた彼らは、逡巡の後、確かめるように俺の言葉を繰り返す。

「ミボ、さん……?」
「はい、レイフォルクのエドナさんに聞いたんです。ミボさんって名前の水の天族に会いたいなら、イズチに行ってみるといいって。」
 俺の説明を聞き、得心したような表情で苦笑するイズチの民たち。「相変わらず」「愉快犯か」「エドナさんならしょうがない」と、散々な呟きが周囲から漏れ聞こえる。そんな周りの反応に戸惑う俺の隣で、悪戯っぽく目を細めて笑う地の天族の青年が口を開いた。
「ミボならまだ留守だよ。確かに、そろそろ帰ってくる時期のはずだけど。」
「そうですか……。」
「あと数日中には帰ってくると思うから、それまでここに居ればいいんじゃないか?」
 青年からの提案に、他の天族たちも賛同の意を示す。―エドの言うとおり、待ち人に会えるまでのんびりすると良い。遠慮なんか要らないよ。と、次々にかけられる暖かい言葉たちがとても心地よく、俺も、目の前の彼らと同じように相貌を崩して笑顔を見せた。

―でも。
ここで彼らの優しさに甘えるわけにはいかないと、俺の理性が小さく声をあげる。
だって、俺は、今日はじめて彼らと出会った『他人』なのだから。
この優しさを受け取るだけの資格は、今の俺にはまだ無いのだ。

そんな複雑な想いもあり。一度レディレイクの都に戻ることを決めた俺は、朝日が帰り道を照らし始める頃合を見計らって、彼らにひと時の別れを告げたのであった。

「皆さんの歓迎、本当に嬉しかったです。」
 旅の荷物を担ぎなおした俺は、杜の入り口まで見送りに来てくれた彼らに向き直り、深く頭を下げて感謝の言葉を伝える。
「ぜひ、また遊びにきてね。」
「帰り道、気をつけろよ!」
「ライラたちによろしく。」
別れを惜しむたくさんの声に後ろ髪を引かれつつ。俺は、何度も手を振りながら、美しくも暖かい天族の杜を後にした。



***


 イズチを発ってから丸一日。
 アロダイトの森を抜けた先で小休憩を取っていると、見知った水の匂いが鼻を掠めた。顔を上げ、慌てて周囲を見回した俺の視界に、先ほど自分が出てきた森に入ろうとする蒼銀の背中が映り込む。
「ミボさん!!」
 咄嗟に口から飛び出した声がやけに大きく聞こえた。ドクドクと耳の奥でやかましい心臓の音を振り払い、探し人だった青年をそっと見遣ると、驚いた表情でこちらを振り返る菫色の瞳と目が合う。

「君は―…。」
「あの、えっと……お久しぶりです!」

 森の前で足を止めた青年に駆け寄りながら軽く会釈をすると、小さな頷きが返ってきた。―良かった、覚えていてくれたんだ。思わぬところで再会できた喜びを、俺は心の中でそっとかみ締める。はやる気持ちを抑えつつ青年の下に辿り着くと、先ほどまで驚いた表情で目を丸くしていたはずの彼は、今は少しだけ険しい顔で考え事をしているように見えた。口元に当てられた手の下で、「なぜ?」と、くぐもった声が漏れる。
「ミボさん……?」
「え、あ、すまない。久しぶりだね。」
 ―元気にしていたかい?と笑いかける彼の表情はどこかぎこちない。
突然声をかけられて迷惑だったのだろうか……?でも、そう思われても仕方ないと思う。だって、彼にとって俺は、再会を喜ぶような関係の相手ではない。数ヶ月前にほんの少しだけ時間を共にした、ただの顔見知りなのだから。

 不安な気持ちが顔に出ていたのだろう。俺の様子を黙って見守っていた青年は、今度こそ嘘の無い表情で困ったように笑顔を見せる。
「すまない、君が僕の名前を知っていたから驚いたんだ。あの時は、結局名前も名乗らず別れてしまったからね。」
「あっ、そういえば……そうでしたね。」
 確かに、彼の言うことはもっともだ。
その事に気付かず、一人不安がっていた自分が恥ずかしい。心臓がまたうるさく鳴り出したのをごまかすように頭をかいた俺は、ここ数日の事の経緯を手短に説明するため、再び口を開いた。

「ミボさんの名前は、レイフォルクのエドナさんに教えて貰ったんです。どうしてもミボさんに会いたいと伝えたら、イズチのことも一緒に教えてくれました。」
 俺の言葉を受け、―あぁ、やっぱり。と零す青年は、昨晩のイズチの民たちと同じように呆れ顔で笑顔を見せる。何かおかしいことを言ってしまったのだろうかと神妙に眉を下げると、目の前の彼はどこか安心したような面持ちで目を細めた。
「それで、君の用件を聞かせて貰っても?」
「あ、はい!」
 俺は改めて姿勢を正すと、一歩後ろに下がってから勢い良く頭を下げる。心の中で五秒ほど数えてそっと顔を上げると、驚いたようにこちらを見下ろす菫色の瞳と目が合った。
「先日は色々とありがとうございました。俺、あの時とても心細かったので……。少しの間でも貴方と一緒に旅が出来て嬉しかったと、どうしてもお礼が言いたかったんです。」
「それだけの為に、わざわざ?」
 不思議そうに首を傾けた青年の肩から、ふわりと蒼銀の髪が落ちる。やけにゆっくりと流れる銀糸は、まるで涙の跡のようで。
「いえ、俺は……、」

 ―もう二度と、貴方を悲しませたくなくて―…。

それは無意識の言葉だった。でも、最後の言葉が声になった瞬間、穏やかに微笑みながら話を聞いてくれていた青年の顔から、血の気が引いていく音が聞こえたような気がした。自身の失言を悟った俺は慌てて顔を上げるが、あっという間に色を失った青年の表情はとても苦しげで。どう声をかけていいか分からなくなってしまった俺は、唇をかんで、出来損ないの言葉たちを飲み込むしかなかった。


 永遠にも感じるような沈黙の後、目の前の青年が小さく口を開く。
「違うんだ…―。」
「?」
「君は、あいつの代わりじゃないんだから。」
「ミボさん……?」
 痛みを吐き出すように言葉を零した青年は、二歩三歩と後ずさると、手にした長杖を力なく持ち上げる。ぴたりと俺に向けられた杖先は、きっと拒絶の証なのだろう。

「……ごめん。君が悪いわけじゃないんだ。」

最後の言葉と共に、長杖の先がゆるやかに振られる。その動きに目を奪われたのは、ほんの一瞬。「しまった」と感じた時にはもう遅く、再び意識を目の前に向けると、青年の姿はすでに霧中へと消えていた。
―なんで、悲しませることしか出来ないのだろう。
周囲に残る霧の冷たさに小さく肩が震える。自身の身を暖めるように体を抱いた俺は、居なくなってしまった彼が最後に見せた表情を思い返して、そっと息を吐いた。





【 四章 願い 】


「なんでなんだろうなぁ……。」

 抱えた膝に顔を埋めて呟くと、静まり返った聖堂にくぐもった自身の声が響く。
 アロダイトの森で蒼銀の青年と言葉を交わしてから早五日。今日何度目かのため息を吐いた俺は、傍らに積み重ねた読みかけの本を尻目に、重い頭を持ち上げて呟きを零す。
「なんで、諦められないんだろう……?」
 蒼銀の青年と別れてからレディレイクの聖堂に辿り着くまでの三日間は、彼の残した言葉の意味をずっと考えていた。何がダメだったのか。何が違うのか。でもそれは、たぶん今の俺が答えを見つけられるようなものではなくて。仕方が無いからと、今度は彼への執着を諦めようとした。その試みから二日目を迎えた現在、俺はこうして無益な自問自答から抜け出せないでいる。

「また一人で悩み事か?」
不意に聖堂の入り口から声をかけられる。
「ウーノさん!戻ってたんですね。」
 顔を上げると、優しいまなざしでこちらを見つめる水の庇護者が一人。
「お知り合いの方とは会えましたか?」
「いや、まだだ。ライラはまだ街中を探しているが、私は諦めて帰ってきてしまったよ。」
 ―いやはや、老体に外出は堪える。と笑う青年は、祭壇を背に座り込んでいた俺の隣に立つと、ぐっと腰を伸ばして息を吐いた。
 聞いた話によると、今日は庇護者たちの古い友人が久方ぶりにレディレイクの都を訪れるとの事で。そろそろ都に着く頃合だろうと二人が外出したのはほんの数刻前の出来事だったはずなのだが……。前もって湖の乙女から聞かされていた通り、彼らの待ち人はずいぶんと気まぐれな性格の持ち主のようだ。

 そんな事をぼんやり考えていると、ふと隣から声をかけられた。
「同胞よ。」
「?」
「たった数ヶ月の付き合いと遠慮をしているのかもしれないが、お前が思っている以上に、私もライラも、お前のことを大切に思っていることを知っておいてはくれないか?」
「ウーノ、さん……?」
 思いがけない言葉に、俺は思わず水の庇護者の顔を覗き込む。突然どうしたのかと視線で訴えると、青年はゆるりと目を細めて俺を見下ろした。
「正直、心配なのだ。この地に帰ってきてからずっと悩んでいるようだが、私にもライラにも相談してくれないだろう?」

 ―あぁ、そうか。だから戻ってきてくれたんだ。
普段はあまり冗談を口にしない水の庇護者がわざとらしく腰を叩いて傍らに居てくれる理由に思い当たり、俺は眉を下げて相貌を崩す。本当に、泣きたくなるくらい優しくて、心強い人たちだ。

「ウーノさん。本当に、いつもありがとうございます。」
「礼はいらないよ。我らも、わが子のように想っているお前に頼って欲しいのだ。」
 他に誰もいない聖堂に響く青年の笑い声はとても穏やかなもので。俺もつられて笑顔を見せると、ここ数日胸の中に溜め込んでいた悩みを口にした。
「……俺、もう諦めようと思ったんです。」
「悲しませたくないと言っていた、例の水の天族のことか?」
 隣からの問いかけに、俺は首を縦に振る。
「あの人の事を悲しませたくないと、はじめて出会った時からずっと思ってました。でも、それも上手くいかなくて、また傷付けて……。だから今度は諦めようと思ったのに、それも出来ませんでした。そもそも、自分でも理由が分からないんです。なんであの人なのか。なんで、諦められないのか―…。おかしいじゃないですか。自分の気持ちに説明がつけられないなんて……。」
 自分でも整理しきれていない想いの欠片は、たどたどしい言葉にしかならず。ちゃんと伝える事が出来ているのか不安になった俺は、隣に立つ庇護者の顔をそっと覗き見る。

「……ウーノさん?」
見上げた先で、なにやら難しい顔をして眉を寄せる青年の姿が目に入る。悩ませるような事を言ってしまったと後悔がよぎった瞬間、聖堂の静寂を破るように、重く、扉が開く音が響き渡った。



***


「あん?誰もいないのか?」

 開け放たれた扉の前に立つのは、長い銀髪を風になびかせた一人の男。
逞しい上半身を惜しげもなく晒した風体は、数刻前に火の庇護者から聞いたとある人物の特徴と一致している。
「ザビーダか。」
「お、ウーノじゃねぇか。静か過ぎて誰も居ないのかと思ったぜ。」
 なんの躊躇いもなく聖堂に上がりこんだ天族の男は、俺たちの目の前で立ち止まると、左右に視線をやって不思議そうな顔をした。
「ライラは留守か?」
「お前を探しに外に出ているが……会わなかったか?」
「げ、入れ違いか。」
―悪いことしちまったな。と呟く言葉とは裏腹に、目の前の天族は人好きのする顔で笑みを見せる。若干軽薄さも漂うが、どことなく憎めない雰囲気を持つ男だと思った。

「ところで。」
 闖入者の訪れから数分。水の庇護者と親しげに言葉を交わす天族の男を黙って眺めていると、思いがけず男の深紅の眼差しと目が合った。
「お前さんが噂の転生者なん?」
「えっ?!俺、噂になってるんですか……?」
 唐突に話を振られ、動揺してしまったのが伝わったのか。目の前の男は少しだけ意地悪な顔を作ると、大きな手のひらで俺の頭を無遠慮にかき回す。
「そりゃあそうだ。皆、お前さんの目覚めを楽しみにしていたんだからな。」
「みんな……?」
「あぁ。そーいや、ミク坊はどうしたんだ?はじめに見つけたのはアイツだって聞いたから、てっきり一緒に居るもんだと思ってたが―…って、んん!?」
 軽快に話す銀髪の男の背後から、白い手が伸びる。男の口を塞いだ水の庇護者は、少し慌てた様子で客人のはずの男を睨み付けていた。
「お前、聞いていないのか?」
「何が?ミクリオに何かあったのか?」
 こそこそと声を潜めて言い合う男たちを尻目に、俺は、一瞬停止してしまった思考を懸命に叩き起こす。
はじめて俺を見つけたのは誰だと、目の前の男は言った?
ミク坊?ミクリオ?
それは、いったい誰の名前だ―…?

「おい、ウーノ。もしかしてコイツ、ミク坊のこと知らないのか?」
「……口止めされていたからな。」
 ―はぁ。とため息を吐いた水の庇護者は、渋々といった様子で銀髪の男を解放すると、戸惑う俺に向き直って困ったように眉を下げる。それは、探し人だった蒼銀の青年のことを何度も尋ねて困らせた数ヶ月前と同じ、隠し事をしている時の庇護者たちの表情だった。
「そーゆーことか。ったく、お前もライラもミク坊に甘すぎじゃねぇのか?」
「どうとでも言ってくれ。あるべき姿でないことは重々承知しているが、それでも、あの子の気持ちも痛いほど分かるのだ。」
「まぁそうかもしれねーけどよ。バレちまったからにはちゃんと説明してやれよ?」
 諦めたように肩を竦める水の庇護者と、得心した様子で苦笑を漏らす客人が、揃って俺に視線を移す。

「ミクリオのこと、全て話すよ。」

―お前の求めていた答えが、きっと見つかると思うから。
そう言って俺を見つめる青年の瞳は、いつかの青空のように清々しく晴れ渡っていた。



***


 ガチャリと、わざと大きな音を立てて開いた扉の先に立っていたのは、蒼銀の髪を高く結った、水の天族の青年だった。

「頼むから……、近づかないでくれ。」
 俺が口を開くより早く、蒼銀の青年が声をあげる。制止の言葉に従って足を止めた俺は、部屋の奥、寝台の前で身を硬くする青年の名を口にした。
「ミクリオさん。」
 青年の顔が泣きそうに歪む。
「ライラやウーノさん、ザビーダさんに聞きました。」
 そう言葉を区切ると、俺はほんの数日前の出来事を思い返すようにそっと目を伏せた。


 蒼銀の青年ミクリオと、かの人の親友であった人間の生まれ変わりが俺だと教えてくれたのは、あの後すぐに聖堂に戻ってきた湖の乙女だった。何故今まで教えてくれなかったのかとむくれる俺に、庇護者たちは困ったように笑いあう。
「ミクリオに口止めをされていたのだ。たぶん、イズチの民も同じであろう。」
「エドナさんもそうだと思いますが……彼女はそう簡単にミクリオさんを甘やかさない方ですからね。」
「俺様はミク坊に何も言われてないんだけど?」
「ザビーダさんは放浪癖があるから捕まらないと、ミクリオさんが愚痴っていましたわ。」
 ―あぁ、なるほどね。と苦笑した銀髪の男は、黙って様子を伺っていた俺の背を勢いよく叩くと、遠慮なく顔を覗き込んでくる。
「まぁ、ライラもウーノもイズチの奴らも、お前さんと同じくらいミク坊の事が大切で仕方ないんだよ。理解してやってくれや。」
「……そんなこと、言われなくても分かります。」
 今まで足りていなかったピースが揃えば、パズルを解くのは簡単だった。
 数百年もの間待ち続けてきた親友の生まれ変わりが突然目の前に現れて、言外に「お前の親友はもういない。死んでしまったよ。」と告げてくるのだ。―…そんなの、辛くないわけがない。
「……でも、」
 蒼銀の青年に対して今まで無意識に行ってきた仕打ちに後悔しつつ、それでも俺には、どうしても一つだけ解せない事があった。
「なんで俺は、彼を泣かせたくないと思ったんでしょうか?」

 親友だったはずの彼のことは、何一つ覚えていない。彼のことだけではなく、人間として生きていた前世の事も、この世界の事も。覚えている事は一つもなかったのに、何故、こんな感情だけが俺の胸の内に残っているのか。それが不思議でならないと庇護者たちを見遣れば、穏やかな顔で微笑む水の青年が口を開いた。
「なぁ、同胞よ。人から天族に生まれ変わった場合、人だった頃の性格や嗜好が受け継がれるのは知っているか?」
 俺は黙ったまま首を横に振る。

「では、前世で大切にしていた想いが受け継がれることは―…?」

 ぱちっと、最後のピースがはまった音がした。
 ―あぁ、そうか。やっと分かった。
きっと、生まれてはじめて安堵の息を吐く事ができた俺は、左手を胸にあて、心臓を掴むようにぎゅっと力をこめる。
「……俺、もう一度イズチに行かないと―…。」
 そう言って顔を上げると、どこか嬉しそうに笑う三人の天族たちが、優しく俺を見つめてくれていた。


「俺、貴方にどうしても伝えたいことがあるんです。」
 伏せていた目を開くと、そこには変わらず硬い表情で俺を見つめる蒼銀の青年の姿があった。―ねぇ、ミクリオさん。と、そっと声をかけながら一歩だけ足を動かすと、目の前の彼はぎこちなく身体を動かして俺から距離を取る。しかし、背後の寝台に退路を断たれている青年はそれ以上後ずさる事は出来ず。一瞬の思案の後に左手を掲げた彼は、何もない空間から自身の長杖を手に取ろうとしているように見えた。

「―…え、」
 カランという乾いた音と共に、蒼銀の青年の身体が寝台に沈む。
 思いがけず床に叩き落された自身の得物を目で追い、一瞬の隙が出来た青年を押し倒した俺は、寝台から起き上がれないように彼の肩をそっと押さえつける。震えを抑えるように「もう、逃げないで。」と小さく声を絞り出すと、戸惑いに見開かれた菫色の瞳がこちらを見上げてきた。

「ミクリオさん。」
「っ、……やめて、くれ。」
 くしゃりと、青年の顔が歪む。
「その顔で、声で……僕の名前を呼ばないでくれ……っ!」
 ―あぁ、やっぱり。そうだよね。辛いよね。
「君はあいつじゃない、別人なのに……。同じ姿に影を重ねて、あいつが死んだ現実を受け入れられない自分が嫌になるんだ。」
―分かるよ。その人のこと、とても大切に想っていたんだよね。

「だって、あんまりじゃないか。あいつは、いっぱい、いっぱい頑張って……たくさん自分を犠牲にして、眠りについたまま死を迎えて……っ。」
 ―うん、そうだね。
「天族に転生したからってなんだ!思い出も、夢も、何もかも覚えていない……そんな別人に生まれ変わったってしょうがないだろ?!あいつが報われることがもう二度とないなんて、そんなの……っ、そんなの、悲しいだけだ―…。」
力を無くした最後の言葉が、涙と共に零れ落ちた。菫色の瞳からぽろぽろと溢れる水の雫は、目尻を伝い、輪郭を縁取る蒼銀の髪を濡らし続ける。嗚咽を抑えようと、浅く呼吸を繰り返す彼の蒼白な頬を包み込むように掌を差し出した俺は、彼の心に届くように、ゆっくりと口を開いた。

「たしかに、貴方の親友の夢はもう叶わない。」
掌の中で、びくりと彼が震えるのを感じる。
「でも、報いが少しも無かったなんて、そんな風に思わないで欲しいんだ。」
 そう言って目尻の涙を拭うと、困惑した表情で俺を見上げる菫色の瞳と目が合った。
―どういうこと?と小さく動く唇はどことなく頼りなさげで。俺は、彼を安心させるように笑顔を作ると、掌の体温を伝えるように、こわばる頬をそっと撫でる。
「……ねぇ、思い出して。世界中の遺跡を巡る夢は、何のための夢だったの?」
「それは……。」
「世界中の遺跡を巡り、天族と人間が共存できる方法を見つけるため?」
 それも確かに、一つの答え。でも、それだけじゃない。
「貴方の隣で、ずっと一緒に笑い合いたい。」

 ―それが、貴方の親友の一番大切だった想い。

「貴方にこの気持ちを伝えるのが、俺に託された、オレの唯一の願いだったんだ。」
そう。だから、俺にはこれしか残っていなかったのだ。この人を泣かせたくない。笑顔が見たい。傍に居たい。大切にしたい。たとえそれがもう叶わない夢だとしても、どうしようもない程に溢れるこの想いだけは伝えたい。なんて人間らしい、最期の『わがまま』なのだろう。
「ね?ほんの少しだけかもしれないけど、ちゃんと報われたでしょ?」
俺の言葉と共に、菫色の瞳がゆっくりと見開かれる。薄く涙が張られた瞳を覗き込むと、俺と良く似た誰かの、穏やかに笑う優しいまなざしと目が合ったような気がした。

「なんだよそれ……、君ばっかり、ずるいじゃないか。」
 ゆるりと持ち上げられた白い手が、俺の頬をそっと撫でる。
「僕だって、君とずっと一緒に居たかった。」
 ―あぁ、なんて暖かい手なんだろう。そう感じたのは、いったい誰の心だったのか。

「本当に、大好きだったんだよ―…スレイ。」





【 終章 『   』 】


 遥か遠い空の先から、イズチヒバリの鳴き声が響く。
 ―イズチで一番綺麗な夜明けを見せてあげる。そう言われ連れてこられたのは、俺たちが一夜を過ごした家屋から少しだけ丘を下った先。下界を一望できる、一際澄んだ空が広がる場所だった。
俺の隣に立つ蒼銀の青年は、夜明けと共に薄れ始めた星空から目を離すと、こちらを振り返ってふわりと笑う。

「ねぇ、君はこれからどうするの?」

 昨晩、眠りに落ちるまで泣き続けていた彼の声はいつもより少しだけ掠れているが、その声が纏う雰囲気は今までよりずっと穏やかなもので。もう大丈夫だと感じた俺は、彼に気付かれないよう、こっそりと胸を撫で下ろす。
「まだなんとも……。前世からの宿題がようやく片付いたんで、俺自身がやりたい事は、これからゆっくり考えようと思います。」
「ふーん、そっか……。」
 どことなく気の抜けた返事を不思議に思って青年の顔を覗き込むと、なにやら思案げに眉を寄せる菫色の瞳が目に入った。何か気になる事でもあるのだろうかと心配になりつつ彼を見つめていると、それに気付いた青年が慌てて苦笑を漏らす。
「もし、よければなんだけど……。」
「?」
「君がやりたい事を見つけるまで、僕と一緒に世界を回らないか?」
 ―色々と世界を見た方が、やりたい事も見つけやすいと思うんだ。と笑う彼の様子は、今まで見たどの表情よりも子供っぽくて。まさかこの人が数百年も自分より長く生きているのかと思うと、おかしくて思わず噴き出してしまいそうになる。そんな俺の胸の内に気付いたのか、むくれた顔でわき腹を小突いてくる青年の姿はやはり年相応には見えず、俺は今度こそ声を上げて笑いを漏らした。

「……で、返事は?」
「はい、俺でよければ。ご一緒させてください。」
 俺の返答に心から嬉しそうに笑みを見せた青年が、そっと天を仰いで夜空を見つめる。夜明けを迎えはじめた空と同じ色で輝く彼の瞳がとても綺麗だと思ったが、それを言うとまた小突かれそうな気がしたので、俺も黙って空を見上げた。
 そこでふと、俺にも一つだけ願い事があることに思い至る。……いや、願いと言うには、あまりにも小さな事なのだが―…。

「ミクリオさん。」
「うん?」
「あの……、俺、ミクリオさんに一つだけお願いがあるんですが……。」
 ―なんだい?と首を傾げる青年を見つめ、俺にとっての、たった一つの願いを口にする。

「俺の名前を、呼んでくれませんか?」

 ―貴方の大切な人に似た誰かではなく、俺自身を見て欲しい。
それは、とても小さな、俺のはじめての『わがまま』だった。

 傾げた首もそのままに固まった青年は、数秒の後、悪戯を思いついた子供のように目を細めて俺に顔を寄せる。
「―…僕は、まだ君の名前を知らない。」
「はぁ!?何をいまさら……っ!」
「自己紹介、して貰っていないだろう?」
 たしかに、言われてみればそうかもしれない。
でも、そんなの今更じゃないか?「納得いかない!」と、暗に視線で訴えてみるが、俺のささやかな抵抗など意にも介さぬ様子の蒼銀の青年は、どこか嬉しげに笑ってこちらに手を差し出す。

「そう言えば、僕も自己紹介をしていなかったね。」
 優しく色づく菫色の瞳が映したのは、俺が願った通り、たった一人の天族の姿だけ。
「僕はミクリオ。……君の名前は?」
―なんだ、何もかもお見通しか。と、心の内で苦笑した俺は、差し出された手をそっと握り返して笑顔を零す。

「俺の、名前は―…、」

さぁ、新しい旅をはじめよう。
守りたい人も、優しい思い出も、大切な約束も。
これからいっぱい、見つけられるように―…。




*********
<反省会>

スレイくん天族転生ルートのエグイところは、ミクリオの親友だった人間のスレイくんは死に、ずっと待ち続けていたミクリオは報われず、新たに生を受けた一人の天族は記憶も無いのに周囲から"導師スレイの生まれ変わり"として見られてしまうことにあると思うんですよね。
ゼスティリアをクリアした当初からそのエグさが辛すぎてなかなか天族転生ルートの妄想が出来なかったんですが、今回ようやく自分なりに納得できる形のお話が書けて本当によかったです…。

ほぼはじめての作文で色々と大変でしたが、(文章の稚拙さは置いといて)やりたかったものが形に出来たと思うので、今はとてもハッピーです!
内容は暗めですが、読んでくださった方にも楽しんでもらえるといいな…!